2009年05月08日


第二試合
藪下めぐみvs美花

闘いというものは、対戦の組み合わせによってさまざまな化学反応を起こす。
藪下vs美花の組合せは、非常にスリリングな闘いとなった。一瞬の油断が命取り。素人目には膠着に写ったようだがとんでもない。そこには非常に繊細な凌ぎ合があった。
例えばこんなことを想像してほしい。
鬼ごっこで鬼vs逃げる人。道幅は限られている。
互いに右に左に横にステップをし、相手の間合いを外した時にしか更に前に踏み込むことはできない。
中途半端な左右の位置から前に出てすり抜けようとすると、捕まってしまう。
一瞬一瞬攻守が入れ替わる鬼ごっこは、わかる人にはわかる闘いだった。それでよいのだ。「お客に伝わる闘いをすべき」?「わかりやすい闘いをすべき」?「プロだから」?フン、アホか。選手は勝つ為に夢中で闘っているだけだ。結果的にそれが観る者の心に様々な形で届くだけであって、「客にわかってもらう」ことが目的ではない。
例えば教室に、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生がまでがいたとしよう。「みんながわかるために、みんなに伝わるために」は、どこに合わせる?
合わせなければならないのか?そんな事は選手の仕事ではない。
様々な化学反応を予測し、ラインナップをするのはマッチメイカー、プロデューサーの仕事なのだ。

一見単なる膠着に見えた「実は緻密な攻防」は、それ故最後に目にも止まらぬ神技のような結末を見せる。美花が勝機と見て、ダイナミックな大外刈りで藪下を一回転させたその瞬間。腕を極められ、マットを叩いたのは美花だった。藪下が女王バチのリングで“風車の理論”を見せてくれた。

ついでに言っておこう。30年近く昔、世紀の凡戦と酷評された猪木vsアリは、今になって評価された。
背景の裏話云々でなく、ジリジリと見合いが続いた凌ぎ合いは、あの頃は膠着といわれたが、今見れば決して膠着ではないと“みんなが”感じるようになっただけだ。
評価は時間差でついてくる。
つづく
posted by 石川雄規 at 11:34 | 日記
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